【美談?逆恨み?】忠臣蔵で学ぶ別視点の重要性【赤穂事件】

■ごあいさつ
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。『スタッフぐでぐで』です。
さて、私は歴史が好きだったりするので時々、時間をかけてある
事件を調べることがあります。

今回、着目したのは江戸時代の元禄年間に発生した「赤穂事件
です。世間では人形浄瑠璃(文楽)及び歌舞伎の演目で披露され
る『仮名手本忠臣蔵』の通称である『忠臣蔵』の名で知られて
いるかもしれません。

今回はこのエピソードを通じて、皆さまへ史実と創作の違いを
ご紹介していきます。皆さまが知っている話は史実か創作の
どちらの話なのかを改めて振り返ってみてください。

 

忠臣蔵の元となった赤穂事件とは
西暦1701年4月に江戸城中松の廊下で、赤穂藩主の浅野長矩が
高家の吉良義央に小刀で斬りかかって刃傷に及んだため、徳川
綱吉の怒りを買い、浅野長矩が即日切腹となった事件です。

赤穂藩が取り潰しになり、後に赤穂藩士が吉良義央を討って
復讐を行い、幕府へ報告し幕府の指示に従って切腹した。

上記概要については忠臣蔵赤穂事件も違いはそれほど大きく
ありません。一度は未遂に終わった事件が、後に完遂されてし
まって実行に携わった者達が切腹となる。
なんとも救いのない話です。

ですが、その他の情報では色々と異なる部分があります。
そして、その違いが後々の世まで美談として語られることに
なります。大前提として当時の価値観で美談と判断されます。

 

 

冷静に整理すると浅野長矩と赤穂浪士側が悪い
えっ、吉良さんが悪い人だから悪人を成敗したんじゃないの

違います。吉良義央(以後は吉良上野介とします)は被害者です。
浅野長矩(以後は浅野内匠頭とします)と赤穂浪士は加害者です。
この事は疑いようのないくらい明確な事実です。

浅野内匠頭は江戸城内で背後から刃物で襲い、赤穂浪士は自宅に
いた吉良上野介を未明に襲撃しています。
やっていることはかなり滅茶苦茶です。当時の司法でも凶悪犯罪
として処理されています。

 

えっ、吉良上野介が浅野内匠頭にハラスメントしていたから
やむを得ず行動したんじゃないの

刃傷沙汰はダメです。そもそも勅使の接待中に刃傷沙汰という
のは一番やってはいけない時と場所です。朝廷からの勅使の
接待はこの日が最終日です。事件は午前11時頃に発生しています
が、接待は半日もあれば終わる予定です。
この接待はとても重要なものなので、指南役をつけているのに
責任者(浅野内匠頭)が刃物で襲うというのはどのような理由が
あっても許されませんし、正当化できません。

何よりそもそもハラスメントがあった記録はありません。
接待が失敗するようなことがあるなら、その記録こそ残ります。
この接待は幕府にとって重要な行事です。そこでトラブルが
発生すればしっかり調査するでしょう。

諸説では賄賂を要求された、何らかの遺恨があるという話を
聞きますが、重ねてお伝えすると「重要な行事」の最中に刃傷
沙汰に及んでも良い理由にはなりません。

 

えっ、裁きの内容が不適切だから赤穂浪士が義のために動いた
んじゃないの

大切なことなのでもう一度。吉良上野介は被害者です。
浅野内匠頭は加害者です。喧嘩両成敗ではありません。

これはこの時代の取り決め事である「武家諸法度」にも私闘を
してはならない。争いが起きたら奉行所へ届け出して指示を仰ぐ
こと。徳川の世で武家諸法度を守らないのはどういう意味を
持つのか、武士ならばわかるはずです。

少なくとも武士の頂点である徳川将軍(徳川綱吉)は吉良上野介
は被害者であると考え、見舞いの言葉をかけています。

 

 

■忠臣蔵の前提は吉良上野介を悪者扱い
史実の吉良上野介は被害者であり、悪人ではありません。
ですが、それでは創作の物語は盛り上がりません。

忠臣蔵では吉良上野介は悪者でなければなりません。それも極めて
悪い人でないと困る事情があります。
「重要な行事」の最中に刃傷沙汰に及んでも仕方がないと思わせる
くらいの理由が必要です。(それでも刃傷沙汰は許されません)

被害者の吉良上野介ですが、この事件の後に隠居に伴い引っ越し
します。事情を詳しく知らない方からすると「重要な行事」の
最中に斬りつけられるのは、被害者側にも落ち度があるのでは。
と見られることになり、元々高齢でもあるのでこのタイミングで
引退を選んだのも妥当と言えます。

この引っ越し先が、後に赤穂浪士が討ち入りする現場となります。

 

■外で狙わず、自宅にいるところを狙ったのは
西暦1703年1月に赤穂浪士は自宅にいた吉良上野介を襲撃します。
外出するところを狙うのではなく、自宅にいるところを狙いました。
戦いと呼べるようものはなく、赤穂浪士側の一方的な展開で襲撃
は終えました。

これは赤穂浪士側が負傷者2名なのに対して、吉良上野介側は
死者15名、負傷者23名と数字から裏付けが取れるでしょう。

この事件の後にも要人が命を失う事件はいくつかありました。
例として、井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」や
大久保利通を暗殺した「紀尾井坂の変」です。
単にターゲットを狙うなら自宅にいるところを襲撃せず、外出
しているところ狙う方が成功率が高いです。

ですが、赤穂浪士側は自宅を襲撃する選択肢を選びました。
赤穂事件が他の襲撃事件と違う点は「外部から非難されない
または非難されにくい形式を整える」ところです。

当時は今のように録画できる機器はありませんので、第三者の
目撃の有無は軽視できない要素です。自宅を襲撃することで
第三者の目に触れないようにしています。

赤穂浪士側は47人で未明に討ち入りしていますが、各々に役割
を与え結束を強め、まるで戦いのような体裁を整えています。
そして後処理についてもぬかりなく丁寧に対応しています。

 

■美談として伝わったのはどうして
襲撃後に浅野内匠頭のお墓に吉良上野介の首級を供えます。
その後に吉良上野介を丁重に葬っています。

襲撃そのものは滅茶苦茶なのに、後処理は礼儀正しく振舞い
幕府に出頭しました。
加えて徳川綱吉の治世に不満があった民衆は彼らの行動を支持
して、さらに幕府内でも助命論が台頭しました。

実際、幕府からの処分は2ヶ月程度かかっています。
浅野内匠頭のときは即日処分だったので、赤穂浪士については
充分な時間をかけております。明確な記録が残っていないので
推測の話となりますが、幕府も処分内容に困ったのでしょう。

法で決まった処分内容に対して、納得いかないから自らの手で
制裁を加えた不届きな集団との見方もできますし、「主君の仇」
を討つという武士の役目を果たしたとの見方もできます。

武士が忠義を貫くことを否定すれば、武士の忠誠があって存続
する幕府の土台が揺らぎかねません。

最終的には創作、史実変わらず赤穂浪士側に切腹を言い渡し
創作の忠臣蔵はここで物語の終わりを迎えます。

 

■史実の赤穂事件には続きがあります
創作の忠臣蔵と異なり、史実の赤穂事件には続きがあります。

吉良上野介の跡取りの吉良左兵衛(吉良義周)が改易されます。
被害者のなのにどうして改易なのか。処分理由も「父を救えずに
おめおめと生き残ってしまったこと」とかなり理不尽です。

幕府もわかっているはずですが、赤穂浪士側の討ち入りが成功し
浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷に及んだ事件の処置に世論
は非難の声をあげました。

幕府は吉良をスケープゴードにすることによって、不満の行先を
幕府から吉良に向けようとの意図を感じます。

これをもって赤穂事件の幕引きを図ろうとして吉良には苛酷な
判断をしたのでしょう。幕府は世論に迎合したわけです。
被害者の吉良さんがあまりにも気の毒過ぎる。

 

■おわりに
さて、「【美談?逆恨み?】忠臣蔵で学ぶ別視点の重要性【赤穂事件】」について
皆さまが知っている話は史実か創作のどちらだったでしょうか。

大事成し遂げるなら、反感を持たれないよう万事丁寧にことを進めて
多くのものを味方につけるというプロセスが大切です。
今回紹介した赤穂事件も本来なら「一方的な逆恨み」なのに多くの
人の力添えがあり、今も美談として残っています。

最後に吉良上野介について補足をいたします。忠臣蔵では演出の関係も
あって悪い人になっていますが、領地経営に関しては治水事業や新田開発
で功績を残しており、地元では人気が高い人物です。
時代や地域という「視点」を変えれば、別の一面が見えてきます。

皆さまも物事を判断するときは複数の視点で情報を整理するとより良い
生活を過ごせると思います。それでは次の記事でお会いしましょう。

 

 

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