皆さん、天下分け目の~~という言葉はよく聞きますよね。
その語源としては昔、豊臣(当時は羽柴)秀吉と明智光秀が覇権をかけて、
天王山で合戦をしたのが由来だと言われております。
その戦いに勝った秀吉はその後、天下統一を果たし、
「この山を制した方が天下を取ることになる」と云われるようになりました。
今回は京都の天王山を登りながら、
その歴史をご紹介していきます。
最後に目の保養の猫画像も載せておきます!
天王山とは京都と大阪の間にある大山崎というところにあります。
ウィスキーで有名な「山崎」の蒸留所があるところですね。
阪急大山崎駅、JP山崎駅や、阪急西山天王山駅から登山道へ入ることができます。
登山される際は、ふもとと山頂でかなり気温が変わるのでご注意ください!
途中途中でベンチや開けた場所があるので水分補給と、休憩を忘れずに行いましょう。
しばらく上ると、少し開けた場所に出ます。
酒解神社(さかとけじんじゃ、さかときじんじゃ)の鳥居や
石碑、展望台などが現れます。
道中現れる石碑に歴史の解説がありましたので一部要約、追記しながらご紹介します。
信長に重宝されていた光秀でしたが、
苛烈な性格の信長に反抗し、謀反を起こしました。
これがかの有名な「本能寺の変」です。
「鬼」と呼ばれる信長を打ち取ることで、
古い伝統を尊ぶ武将や、寺院などが光秀を
後押ししてくれるという算段でしたがそうはならず、
あてにしていた大名達でさえ離れていきました。
光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済を発展させてきた
信長は豪商や民にとっても人気があり、秀吉側に勢力が流れていき、
天王山に布陣した光秀は期待していた援軍を得る事が出来ませんでした。
「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっていますが、
実際の合戦は山の東側の湿地帯で行われ、勝負が決したのは淀川沿いの戦いであった、
と記されております。
1582年7月12日の夕方、天王山の東側に展開した光秀勢が、
秀吉方の先手である諸隊に攻め掛かり、天王山と淀川の間の狭い道を
出てくる秀吉方を撃破する作戦でした。
ですが、この東側には広い沼地があり光秀方の猛攻も思い通りにはならず、
秀吉方の先手を崩すことはできませんでした。
その間に秀吉方は光秀方が手薄な淀川の方を攻め、
合戦開始からわずか1時間程で戦場を支配しました。
結果、合戦開始から3時間程で光秀勢は総崩れとなり、
総大将である光秀は勝龍寺城という小さな平城に逃げ込みました。
ですが、この城では秀吉の大軍を凌ぐことは出来ないと考えた光秀は
夜が更けるのを待って少数の側近と共に妻子が待つ、本拠地「近江坂本城」を目指しました。
しかし、山科に差し掛かった時、突如竹藪から突き出された竹槍に刺され重傷を負い、
先を悟った光秀は、その場で自刃し果てました。
光秀を襲ったのは武将ではなく、落ち武者狩りに出ていた普通の村人。
享年55歳、当時としては初老というべき年齢でした。
これより15年前、足利義昭の使者として信長と相まみえた光秀は、
詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われ信長の禄を食むことになりました。
それからの出世は早く、わずか4年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて
織田家屈指の有力武将にのし上がりました。
ですが、光秀は信長の改革の過激さに反発を感じ出し、本能寺の変を起こすことになります。
山崎の合戦で光秀を破った秀吉は信長に代わる「次の天下人」という機運が高まり、
織田家の家臣の大多数も秀吉の命令に服するようになっていました。
一部、柴田勝家などが秀吉の天下取りを阻もうとしましたが、及ばず秀吉の圧勝に終わりました。
勝家に勝利した秀吉は天下統一の象徴として大坂の地に巨城を築き、
各地の大名達を取り込みました。やがて朝廷からも関白、太政大臣に任命され、
遂に天下統一を果たしたのです。
秀吉は政治的に天下を支配しただけではなく、
経済の面でも大坂を中心とした物資と金銭の流通を把握し、
文化の面でも茶道や囲碁将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせました。
これらは徳川幕府にも引き継がれ、日本独特の「型の文化」を創り出すことになります。
秀吉のきらびやかな天下、それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのです。
※石碑の内容を一部要約しております。
なんとなく言葉として知ってはいましたが、こんな物語が天王山にはあったんですね。
歴史の教科書には載っていない、ディープな歴史でした。
信長の訃報を聞いた秀吉が、かの有名な「中国大返し」で
光秀の想像を超える猛スピードで帰京したエピソードもあります。
他にも道中、神社やお墓などもありましたのでご紹介いたします。
・十七烈士の墓
十七士の墓は、禁門の変(1864年)の時、
戦いに敗れ天王山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名の眠る墓です。
禁門の変は、京都で起きた事件で、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれています。
・酒解神社
正式名称は「自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)」。
いつ頃建立されたのか不明ですが、養老元年(717年)建立の棟札があることから
奈良時代の創建とみられているようです。
現存する板倉形式の遺構としては最も古いとされています。
・山崎城の井戸跡
山崎の合戦の後、山崎城を築城した秀吉によって設けられたとされています。
各所を経てやっと山頂に到着。
駅から測れば、だいたい60~90分くらいでしょうか。
いろんな登山道があるので帰りは少し違う道で下っても良いかもしれません。
ふもとまで下りてくると、電車好きの方にはたまらない?
映えスポットがありました。
阪急電車が真上を通る迫力はすごかったです!
電車の裏側を見れる機会はそうそうありません。
JRと阪急の線路が近いので、JRと阪急の共演も可能なのか、
撮り鉄の方々もチラホラ。
駅の近くにはオシャレな飲食店やカフェもあるので、
ゆっくり休憩も出来ます。
というわけで京都の大山崎にある天王山を歴史と共にご紹介いたしました。
弊社では京都の歴史ある料亭『道楽』のおせちを扱っております。
創業から390余年を誇る老舗料亭、十四代目政治郎 飯田知史 氏が監修した
おせちがなんと4種類も!
■平安祝重 『清新』
伝統的な和風うす味の6.5寸のおせち 彩り豊かな45品目
■福来重 『新玉の息吹』
滋味深い和の心を堪能できる8.5寸のおせち 大人数向け66品目
■道楽十四代目政治郎完全監修『うかたま』
最高級食材のみを使用した50個限定高級生おせち
■道楽十四代目政治郎完全監修『うけもち』
内容、品数はうかたまと同じに二段重に詰めた伝統京おせち
ぜひ、おせちを召し上がりながら、歴史を感じてみてください!
最後に、猫の画像も載せておきます。
白いのが「ゆき」と、サビ模様の「あめ」です。
ゆきは人懐っこく、あめは極度の人見知りです。